以前、高野山の宿坊に宿泊した事を記事に書きました。
今回は金剛峯寺で拝見した襖絵などと共に、記事に書いていきたいと思います。
因みに「総本山金剛峯寺」と言えば、これからご案内する「金剛峯寺」だけでなく、高野山一帯の事を指すそうです。
このお寺は豊臣秀吉が1593年に亡き母の菩提の為に建立されたものだそうです。今のお寺は、1963年に再建されたものです。
自分の息子が、草履の番からこんなお寺を建ててくれるなんて、お母様も思いもよらなかったでしょうね。
アクセス
名前 | 金剛峯寺 |
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住所 | 〒648-0294 和歌山県伊都郡高野町高野山132 |
電話番号 | 073-656-2011 |
拝観時間 | 8:30~17:00 |
拝観料 | 中学生以上 1,000円小学生 300円未就学児無料 |
電車利用:高野山駅から南海りんかんバスで10分 大門行きバス「本山前バス停」下車。自動車利用:金剛峯寺前駐車場、金剛峯寺前第2駐車場に無料で利用可能。
金剛峯寺
正門
こちらの門は、皇族や高野山の重職など限られた人しか利用できないものだったようですが、現在はこの様に私達一般人の利用できるようになっています。
女人禁制の山だった事を考えると、随分と変わったものですよね。
門の先に見えるのが小玄関です。
大玄関と小玄関
主殿を撮影しました。
正面からの写真ではないのですが、真ん中に位置する大きい入り口が大玄関です。
この大玄関も、正門同様、皇族や高野山重職のみが使用を許されていたそうです。さきほどの正門からも見えていたのですが、奥に小玄関が見えます。
鐘楼(しょうろう)
1860年の大火で一旦焼けてしまったのですが、一緒に燃えた主殿と共に1864年に再建されたと言われています。
蟠龍庭(ばんりゅうてい)
白砂は雲海に見たていて、140個の花崗岩で雌雄一対の龍を形成しているそうです。
その広さは2,340平方メートル。国内最大の石庭です。
千住博画伯の襖絵
金剛峯寺には、歴代の名だたる画家の襖絵がありますが、自分の生きている時代の画家の作品が、その襖絵に選ばれるとは感慨深いです。
千住博画伯
東京都出身、現在はニューヨーク在住の有名な日本画家で、滝をモチーフにした「ウォーターフォール」等の作品が有名です。
公式ホームページはこちらです。
Hiroshi Senju Studio
確かに日本画なのですが大変モダンな画風で、今までの日本画のイメージを覆される作風ですね。(語彙力なくてごめんなさい)
襖絵
建物内の写真撮影は禁止だったのですが、この襖絵の撮影は可能でしたので、撮影してまいりました。
※現在は一部公開していないようです。
金剛峯寺襖絵 一部拝観休止について
千住博画伯より奉納いただきました襖絵『瀧図』『断崖図』について、諸般の事情により一部拝観を休止いたします。
期間中に御参拝予定の皆さまには大変ご迷惑をおかけいたしますが、何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。
期日:令和3年6月16日(水)~7月下旬 引用:金剛峯寺公式サイト
高野山開創1200年を迎えた2015年から、これらの襖絵はニューヨークのアトリエで3年をかけて制作されたそうです。
高野山や空海に関する本を読み、ゆかりの地を訪ねる事にも大変時間をかけられたそうです。
せいぜいiPhoneの写真では迫力が伝わらないのが、惜しいのですが、圧巻の作品です。
襖になる前の作品も見てみたかった。
是非、実物を見ていただきたいです。
断崖図
瀧図
こちらのお部屋は、僧侶たちの食事が賄われる台所そば「囲炉裏の間」になります。
こちら、シルクスクリーンを販売している会社のサイトに、千住画伯の言葉が掲載されていました。
“お釈迦様がお亡くなりになった日の夜を徹してお祈りする部屋が「囲炉裏の間」だ。
私はこの襖絵には崇高の上にも崇高な滝を描きたいと思った。自然で、柔らかく、そして光に満ちた滝。
無我夢中で制作に明け暮れた。しかしうまくいかない。上から下に重力だけを頼りに絵具を垂らす。
何十回とやり直す中、いつしか私の自我では表せないような、つまり私が描いたとは思えない滝の流れが表れた。
見るに見かねて空海が後ろからそっと手を添えてくださったのだと感じた。
制作の上でも「同行二人」だった、と思っている。
千住博” 引用元:UKIYO-E STUDIO
世界遺産である霊場である高野山の金剛峯寺に襖絵を手掛けるなんて、画伯の集大成なのでしょうね。
その他見どころや感想
金剛峯寺は、狩野派のような素晴らしい襖絵たち、庭園な芸術作品に溢れたお寺ですが、その中に生活に密着した古い台所で僧侶たちが作業している場面を見かける事もあり、世界遺産と言われていようともこのお寺は生き続けているのだと感じました。
ちょっと心がほころぶ場面でもあります。
写真の撮影は出来なかったのですが、大変印象的だったのが「秀次自刃(じじん)の間」と呼ばれる「柳の間」です。
秀吉が甥にあたる、関白秀次の自害には諸説あります。
秀次は謀反の罪を被せられたという説があるのですが、どういう理由であれ、当時「高野山に入る」と言う事は「死を免れる事が出来る。」という事だったそうです。
無念であっただろう「柳の間」をみて「怖い」「気持ちが悪い」という気持ちが起こらなかったのは不思議です。
この事件は、歴史が好きな方には有名なお話のようですね。
調べていくと、聞き覚えのある「京都三条河原の悲劇」につながるようで、今後の京都探索のテーマにもつながりました。
現代の寺や僧侶の役割、武将やその取り巻きの人たちの生死感が、私達が想像する以上に乖離していたという事を感じるのも、金剛峯寺を見て回って感じた事でした。