先日ブログにレジェンドオブコンコルドの記事を書いたときに、一緒に記事にしようと思っていました。
せっかくスマホに写真が沢山残っていたので、ブログにして残そうと思った次第です。
しかし、冗長になりますので別記事とします。
前回同様、ブログにする予定で撮影していないので、いつも以上に雑な写真となって申し訳ないのですが、ご覧になってください。
当時はじっくり読まなかった展示物を元に、改めて振り返ってみたいと思います。
2018年、関西国際空港で「PANAM世界周航70周年記念フェア」が、SKYVEWで開催されていました。
実際は搭乗した事もなく、随分昔になくなっている航空会社だと思っていたのですが1990年代まであったようですね。
確か、「兼高かおる世界の旅」のスポンサーでしたから、ずいぶん昔でもないかと。(感じ方は個人差ありますが)
幼い頃に見ていた記憶があります。
ずいぶん長いブログになりますので、時間のない時は目次の興味のある項目をクリックしてご覧になってください。
日本パンナム同窓会一同?
ん?日本パンナム同窓会一同?
日本にも就航していたのですから、日本人従業員がいてもおかしくないですよね?
きっと洒落っ気もある素敵な紳士淑女が集う同窓会かと思うと、想像するだけで楽しいです。
本が出版されているみたいで、さっそく購入させてもらいます。
パン・アメリカン航空物語
同窓会の方達の中には、終戦直後の航空業界を知る方がご高齢になって、当時の様子を方語る事が出来る方も減少しているのでしょうね。
パンナムの歴史を知りたいと思う私たちにとって、その機会がこのパンナムフェアで、OBさんたちのお陰で開催ができたのでしょう。
因みに、月刊エアライン編集部が同窓会の様子ツイートされていました。
日本就航70周年を迎えたパン・アメリカン航空のOB・OG同窓会「Pan Am Alumni Party 2017」。200名を超す日本の元従業員たちが集まり、懐かしい話に花を咲かせました。
今年はパンナム創業90周年のアニバーサリー・イヤでもあります。 pic.twitter.com/Xd0yxwxa90— 月刊エアライン編集部 (@ikarosairline) September 30, 2017
あまりにも憧れが強くて、PANAM同窓会のストーカーの様になってしまいました・・・・
創業者 ファン・テリー・トリップ
ファン・テリー・トリップ(Juan Terry Trippe、1899年6月27日–1981年4月3日)は、アメリカの実業家。40年以上の長年に渡って、当時世界最大の航空会社の1つであったパンアメリカン航空の経営者として君臨した。引用元:Wikipedia
投資銀行家の家という裕福な環境に生まれました。
自由の女神像を折り返し地点とする、飛行機のエアレースを見て「いつか飛行機で空を飛びたい。」と思ったそうです。
「飛びたい」というだけの夢を、それ以上に具現化できるのは、経済力はもちろん只ならぬ意思の強さ、自分を信じる力をお持ちの方だったのでしょう。
1926~1935
1927年 ハバナ~キーウェスト初飛行
パンナムはハバナーキーウェスト間の郵便飛行免許を、キューバ政府から貰っていました。
1027年10月19日に定期飛行を開始する予定でフォッカーF7という飛行機を発注しています。
しかし、ハリケーンで飛行機の完成が遅延し用意できず。
滑走路も天候悪化で用意が出来ず、着陸ができなかったようです。
そこで、当時一般的だった水上機を借り、ハバナ~キーウェスト間60分の初飛行をこなしました。
同年10月28日に、完成されたばかりのフォッカーF7と滑走路で正式就航。
当時の会社規模は、フォッカーF7が2機、従業員24名、本社はニューヨーク42番街で賃料はトリップのポケットマネーだったそうです。
郵便航空飛行からのスタートでしたが、翌年2018年1月に片道50ドルの旅客飛行を開始しました。
1929年 チャールズ・リンドバーグを迎える
1927年25歳で、ニューヨーク~パリ間を単独無事着陸飛行に成功し、一躍世界的な英雄となったチャールス・リンドバーグを名誉顧問に迎え入れました。
人気者のリンドバーグは広告塔にもなったため、カリブ海や南米を周遊飛行すると行く先々で歓迎を受け、パンナムの航路開拓にも携わりました。
同時に、トリップも各国の要人とルート拡張の交渉を行い、各国政府の認可を取っていったそうです。
ただ、当時は空港が無かったので河川や港湾を利用できる飛行艇を主軸としたとのこと。
1935年 世界初の太平洋横断航路
この太平洋横断飛行を成功させるために、ハワイやグアムなどの島を給油地とし、ホテルや飛行場を作っていきました。
パンナムがリゾートのイメージが強いのは、この辺からかもしれませんね。
余談ですが、その昔、大阪にパンナムというレストランバーがあり、コースターがMANAMのロゴだったのを覚えています。
そのお店も、ハワイアンテイストで雰囲気の良いお店でした。
食べログサイトが残っていたけれど、写真等の画像が消されているのはあまりにも昔の話だからでしょうか。
パンナムはマーチン社・マーチンM130チャイナクリッパーで、サンフランシスコ~マニラ間の太平洋横断に成功しました。
旅客飛行は1936年から、運賃143ドル、一便に7名しか乗る事ができなかったそうです。
それでも1000人を超える申し込みがあったとか。
またパンナムは航空機の会社から既存の機種を購入するのではなく、要求を仕様書を作成してを送り理想の航空機を作成させていたそうです。
チャイナクリッパー以外にも、シコルスキー社にシコルスキーS42を作らせました。
1931年にメーカー6社に仕様書を送り開発の依頼をするも「夢のような話」と4社に断られたそうです。
シコルスキーS-42 引用元:wikipedia
1939~1947
1939年 世界初の太平洋横断航路開設
香港やオーストラリアへの路線拡大にいつも障壁になっていたイギリスとの交渉に成功し、大西洋航路を開設しました。
太平洋横断航路の目的地がマニラになっていますが、当初はイギリス植民地の香港を検討していたそうです。
しかしイギリスが推していたインペリアル航空と利権がぶつかため、許可がおりなかったとのこと。
最終的には、ポルトガル領だったマカオに飛行場を作ることを匂わせて、イギリスからの許可を得たそうです。
飛行したのはボーイング314ヤンキークリッパー
ボーイングはヤンキークリッパーを12機生産したのですが、第二次世界大戦で徴用されたりイギリスに転売されました。
1941年 各路線開設
サンフランシスコ~香港、シンガポールの定期便就航。
ニューヨーク~パナマのノンストップ便開設。
南米からアフリカの定期便就航。
なお、戦中でしたのでこのような事も起こってしまったようです。
そしてアメリカやイギリスが1941年12月8日に日本との間に開戦した。イギリス領香港の啓徳空港もこの日に攻撃され、マニラから到着したばかりのシコルスキー S-42「ホンコン・クリッパー」を日本軍に破壊された[6]。なお乗組員たちは日本軍に囚われ、1942年に運航された交換船で帰国した。引用元:Wikipedia
今までパンナムがどんな思いで飛行機を設計してきたかと思うと、戦争だから仕方がないと言え悲しいエピソードですね。
しかし、終戦数か月後の1945年11にヤンキークリッパーによる、サンフランシスコ~ホノルル便を復活させました。
フィリピン、中国、オーストラリア便も。
復帰が驚くほど早いですね。たった3か月です。
1947年 世界初の旅客機による世界一周定期便運航を開始
さらに1947年6月には、世界初の自社運航による世界一周路線を試験的に開設し(ニューヨーク=ロンドン=イスタンブール=カルカッタ=バンコク=マニラ=上海=東京=ウェーク島=ホノルル=サンフランシスコ=ニューヨーク)、その後定期便として運行、東京に同年9月にはノースウェスト航空に続いてホノルル国際空港からウェーク島を経由して、連合国軍の占領下となった日本の東京国際空港への乗り入れをダグラスDC-4で開始した。なおこれは、同社の設立後初めての日本への乗り入れとなった。1949年には週6便、機種もボーイング377に大型化する[7]。引用元:wikipedia
1950~1954
当時の東京国際空港は、アジアのハブ空港だったようです。
1950年 美空ひばりハワイ巡業
戦後5年の年に、当時中学生だった美空ひばりはハワイの日系人の為に巡業の旅に出ました。
当時、戦争孤児の役どころを演じた美空ひばりは、過酷な環境におかれていた日系人の希望の光だったようです。
美空ひばり公式ウェブサイト
その時搭乗したのが、ボーイング 377 ストラトクルーザー(Boeing 377 Stratocruiser)
最期の大型プロペラ機です。
これプロペラで飛ぶの??と思うくらい大きいです。
そして、社名をPan American World Airwaysに社名変更。
1951年 フランシスコ講和条約締結
吉田茂と白洲次郎らが、サンフランシスコ講和条約締結の為に搭乗したのもボーイング 377 ストラトクルーザー(Boeing 377 Stratocruiser)
総理大臣よりも早く377に搭乗したのが、当時中学生の美空ひばり、そして連合国軍との戦争終結のための平和条約が1951年とは、戦後5年もたっても日本が混沌としていたのではないかと感慨深いです。
1954年 マリリンモンローと、ジョー・ディマジオ夫婦来日
マリリンモンローと、ジョー・ディマジオ夫婦が新婚旅行で来日。
羽田空港に降り立ちました。
新婚旅行と言っても、ジョー・ディマジオは各地で日本のプロ野球選手の指導にあたっていました。
マリリン・モンローも岩国基地で慰問を行ったり、途中で新婚旅行を抜け出し朝鮮戦争の慰問に出て行ってしまったそう。
ちょっと退屈しちゃったのかな?
ジョー・ディマジオは記者会見の場で、マリリン・モンローへの質問ばかりになったり、ファンが殺到したためにプライドがズタズタになってしまったようです。
1958~1960
ジェット機は第二次世界大戦終盤でイギリスの航空会社が導入していましたが、事故が多い事から信用が無く、多くの航空会社が導入に二の足を踏んでいたようです。
そんな中、1955、トリップはジェット機の発注を行いました。
ボーイング社20機、ダグラス社25機、総額三億ドル。
なんと、ダグラス社のジェット機にいたっては設計段階で、実物を見ていなかったそうです。
こんな大人買い、聞いたことがありません。
1958年 ボーイング707登場
ボーイング707、ニューヨークパリ間就航。
6時間40分かかっていた就航時間が、3時間時間が短縮されたそうです。
従来のプロペラと違って、騒音や振動もなく、広くて快適なキャビン、高高度を飛行するため天候にも左右されにくいと良いことずくめ。
それまでは、騒音や振動がある中、6時間も搭乗されていたのですね。
従業員の方の、健康状態も気になるところです。
1959年 「兼高かおる世界の旅」放映開始
正確に言えば、番組スタート時は「兼高かおる世界飛び歩き」という名前だったそうです。
「兼高かおる世界の旅」は1960年から。
1990年までの長寿番組。
番組スポンサーに三洋が名を連ねてましたが、その会社ももうないですね。
小学生の頃の、毎週日曜のおたのしみ。
当時大きく感じた父の背中の後ろから、トーストをかじりながら観ていたのも懐かしい思い出。
海外旅行の憧れも何も、次元が違いすぎて別世界の出来事の様で、私達が見慣れないものを、兼高さんがお上品に食べているのを不思議な感じで観ていました。
成長するにつれ生活も多忙になり、好奇心の対象は他にも増えて、1990年に放映が終ったのを知ったのは、それからずっと後の事でした。
悲しい事です。
ジャーナリストの兼高かおるがディレクター、プロデューサー、レポーター、ナレーター、そして時にはカメラマンすべてを兼ね、世界各地160か国を取材した映像を放送していた。引用元:Wikipedia
女性の社会進出が進んだ現代でも、ここまでアグレッシブに働く女性はいないと思います。
当時では珍しい海外留学経験があり、インド系のルーツを持つというキャラクター、美貌とハイセンスの持ち主という類まれなる存在であるからこそ、ある程度任せて貰えたのかもしれません。
兼高かおるさんは、地球180周の距離を周られたそうです。
お亡くなりになった時に、思い立った様に著書を拝読しました。
旅の楽しい写真、ファッション、生い立ちなどすべてにおいて、ますます憧れを強めてしまった本です。
大昔の事なのに古臭さを感じない、不思議な著書でした。
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1960年 ワールドポート竣工 New Jet Age Terminal
なお、これまでの機材の倍以上の乗客数を持つボーイング707型機とダグラスDC-8型機の就航に合わせて、1960年に本拠地のニューヨークのアイドルワイルド空港に、巨大なパンアメリカン航空専用ターミナルビル「ワールドポート」を竣工し同年5月24日から供用を開始した。引用元:Wikipedia
天候を気にせず乗降ができ、多くの飲食店が入った大規模な建物で「New Jet Age Terminal」と呼ばれた様です。
1961~1966
1961年 ヒョーショージョー
極東地区広報担当支配人のデヴィット・ジョーンズ氏。
米国人の中では小柄な方だと思うのですが、大きなこれで「ヒョーショージョー!」と賞状を読まれていたのが印象的でした。
これを真似ている小学生は多かったはず。
呼び出しの手も借りず、40キロもあるトロフィーを持ち上げる様子はハラハラさせられます。
幕内最高優勝力士に対する「パンアメリカン航空賞」は1953年から始まっており、前任者が退職するとともにこの賞を中止する予定だったのを、ジョーンズ氏が反対し、賞の存続となりました。
そこで、存続を主張したジョーンズ氏が担当する事となりました。
大阪、名古屋、福岡などで開催されるときは方言を使用したり、観客を飽きさせない工夫を考えていたようです。
1963年 パンナムビル竣工
1963年3月7日竣工
地上59階建て、高さ246.6m、延床面積260,000m²、当時世界一高い商業オフィスビル。
ジョン・F・ケネディ国際空港へのヘリコプターサービスでも知られ、屋上のヘリ発着場から7分で空港まで行くことができました。
しかし、このサービスは1965年12月21日から1968年2月18日と、1977年の数か月の間のみ行われました。
原因は、死者5人を出した事故が発生したからだそうです。
1970年代後半になるとパンナムの経営は悪化し始め、パンナムはビルを売却。
1981年、生命保険会社のメトロポリタン・ライフ・インシュアランス(Metropolitan Life Insurance Company、メットライフ)にビルを売却。
1991年にパンナムが事業を停止、メットライフは南北にあったパンナムのロゴを自社のロゴに置き換え、ビル名も「メットライフビル」に改名しました。
因みに、1977年から1984年にかけて『アメリカ横断ウルトラクイズ』の決勝戦会場ががビルの屋上で行われていました。
パンナムも金がありましたが、日本のテレビ局もお金がありましたね。
クイズ番組を作るのに、アメリカ横断させてしまうのですから。
1966年 日本人スチュワーデスとボーイングB747
日本人スチュワーデス採用をしました。
パンナム日本人スチュワーデス2期生の高橋文子さんは、『DREAM FLIGHT 翔んで飛んで人生に夢を探した女性の奇跡』という書籍を出版されています。
DREAM FLIGHT―翔んで飛んで人生に夢を探した女性の軌跡
当時のパンナムの事を知りたい方は読んでみると面白いでしょう。
因みに、1955年、日本航空の太平洋路線を意識して日本人旅客を視野に入れ、ハワイ日系二世女性のスチュワーデス採用を打ち出しています。
彼女たちもパンナムを辞めた何十年経っても「同窓会」を開いているらしいです。
一方、当時、ボーイングとダグラスに空の覇者を奪われて、イギリスとフランスが巻き返しをしようとして、コンコルドの開発に取り組んでいました。
トリップは、「707が座席数150ほどだったから座席数400ほどある航空機を作ってほしい」とボーイングに無茶振り発注を行いました。
そこでボーイングは社運をかけ、組み立て工場から建設するビッグプロジェクトを開始。
20憶円ほどかかり、失敗は許されませんでした。
そこで完成したのがボーイングB747だったのです。
1970年、ニューヨーク~フランス間を初飛行。
パンナムの機種
やはり特筆すべきは、747「ジャンボジェット」の功績だと思います。
一度に400席も有する航空機で大量輸送が可能になり、高嶺の花だった空の旅が特別ではなくなった。
パッケージツアーや団体旅行も生まれ、航空会社や旅行会社に革命を起こしたと思われます。
トリップの無茶ぶり発注のおかげで、私たちが海外旅行に行けるようになったのだと思います。
1976年4月、ボーイングは超長距離型のボーイング747-SP世界初のニューヨーク-東京間の無着陸直行便を就航させました。
世界一周の旅にも投入された機種でもあります。
因みに、トリップは、747の開発の目途がたった1968年に会長職を退いています。
ロッキード L-1011 トライスター
通称L10( エルテン)はロッキード社初のジェット機で1960年代に開発が始まり、1972年に航空各社に引き渡しが開始されました。
マクドネルダグラスDC10
ダグラス社がアメリカン航空の要請をうけて開発した、主に中距離路線を想定した300席クラスの機体です。
アメリカン航空へは1971年に引き渡しが行われました。
なお、トライスラーとDC10はライバル機で、ダンピング競争も発生し、ロッキード事件という政界や商社を巻き込んだロッキード事件は、トライスラーをめぐって繰り広げられたそうです。
シアトルに行った際に、ボーイングの工場見学をしています。
ボーイング・エバレット工場
ロゴの変遷
今でも人気の高いパンナム(パンアメリカン航空)のロゴ。
私達が認識できるパンナムのロゴ、通称「Blue Globe」は、1955年、パンナムのデザイン・コンサルタントだったエドワード・ララビー・バーンズ (1915-2004)とチャールズ・フォーバーグによってデザインされました。
因みにバーンズは、IBMビル(1982)を設計した建築家です。
’70年代に Joseph Montgomery によって少し変更されたようです。
この情報は、こちらの記事を参考にさせて頂きました。
DAYLIGHT
パンナムの終焉
意外な事にこれまでパンナムは国内線を持っておらず、国内から旅行者を集めるために国内線が必要になりました。
そこでナショナル航空を買収しましたが、これがパンナム終焉の要因となったようです。
このナショナル航空は南北方向のマイアミ路線に偏っており、東西路線は少なく、パンナムと連携が取れませんでした。(買収前のソロバン大事です)
それだけでなく、ナショナル航空従業員の賃金もパンナムレベルに引き上げられることになりました。
制服の統一や施設の整備も行わなければなりません。
1978年、カーター大統領が航空規制緩和法を制定しました。
お金と頑張りで誰でも航空路線を拡大できるという規制緩和は、政府と仲良しだったパンナムにとっては危機でしかなかったのです。
航空会社の競争が激化しました。
アメリカン航空が始めたマイレージサービスが良い例です。
1970年代のオイルショックで石油価格は上昇、不景気になり乗客が激減。
座席数400のジャンボジェットは足かせでしかなく、業績は悪化していきました。
航空業界においてオイルショックなどは共通している問題ですが、すでに大きな組織となってしまったパンナムはフレキシブルな動きをとりづらく、新しくできた航空会社とくらべて変化について行くのが難しかったと言われています。
1981年にエドワード・アッカー氏にCEOを交代。
彼は、パンナムビルやホテル、各路線を次々に売却していきました。
1985年にはユナイテッド航空に太平洋路線のすべてを7.5億ドルで売却。
パンナムの高い知名度、政府と蜜月だったというのもありテロ組織の標的にもなりやすく、発生した事件では多額の賠償金が発生。
組合がストライキを起こすたびに給与を引き上げなければならない。
様々な悪い要因が重なり、1991年1月に倒産をしました。
しかしデルタ航空の支援の元、再建を目指しましたが、同年に発生した湾岸戦争で乗客が激減、燃料価格も高騰しました。
頼みの綱のデルタ航空が大株主の反対を受け、2500万ドルの資金援助を行う事ができなくなりました。
結局同年12月に破産をし64年の歴史の幕を閉じました。
機内食
このパンナムフェアの時に、SKYVEW内のレストラン、レジェンドオブコンコルドで出された、パンナムの機内食を再現したメニューを頂きました。
味は特筆するものは無かったのですが、写真を掲載いたします。
展示物
最後に
ここまで、主にWikipediaやYOUTUBE動画を参考に記事を書き出し、予想より長い記事になってしまいました。
最期に見つけたサイト。
Pan Am Historical Foundation
日本語表記で読むと日本語が少しおかしくなりますが、パンナムに関してすべてが網羅されていました。
さらに詳しく、パンナムの事を知りたい方には、おすすめのサイトです。
画像も見ていて楽しいです。
記事を書くにあたり、大変参考にさせていただきましたYOUTUBE動画はこちらです。
大変楽しく視聴できますので、大変おススメです。
冗長になりましたが、最後までご覧になってくださり有難うございました。